当寺は、貞観七年(八五二)に天台の薬師如来別当として、慈覚大師御年五十三歳の御彫造とされる本尊薬師三尊像を東海の湾に接し比叡山を髣髴させる鶴見区二見台へ安置する為、貞観寺として建立されましたのがはじまりと云われております。
その後、天正三年(一五七五)馬場建功寺第二世聲庵守聞大和尚を御開山とする成願寺として建立された曹洞宗寺院が元和(一六一五~一六二三)の頃、荒廃していた二見台貞観寺へ移転しました。江戸時代には薬師如来が篤く信仰され、寺領拾石の朱印状を付与されており、「新編武蔵風土記」や「江戸時代図誌」にも記述がみられます。
大本山總持寺が能登から移転するに当り、第二十世加藤海應和尚代の明治三十九年二月に境内地を移転再建地として献納し、大正元年現在の豊岡に移転しました。
現本堂は、二見台より移築した本堂の老朽化により昭和十二年に第二十二世廣澤道仙和尚により再建されました。平成二十七年六月に薬師堂、山門と共に第二十五世廣澤道秀和尚によって改修工事をいたしました。
昭和五十一年七月、移転時の建物が老朽化して取り壊されていた薬師堂を、昭和六十二年には、客殿並びに庫裡を第二十四世谷川徹禅和尚によって再建いたしました。薬師堂内には、薬師三尊と眷属の十二神将を安置しております。
山門の仁王像は室町時代、九州竹田の番匠の作と伝えられています。各仏像共、破損を修理して伝承されておりますが、後世に残すべく順次修復をいたしております。
また、大本山總持寺の貫首猊下(禅師さま)の入山、晋山の際には、当寺を安下処とする習わしとなっており、本尊へのご拝登の後、身支度を整えてご出立いただいております。
当寺奉安の薬師瑠璃光如来、脇侍日光菩薩・月光菩薩各尊像は、今から六百年前(鎌倉末期)の御作であり、東海の秘伝として伝えられています。
薬師如来は、醫治の王としてお釈迦様在世より信仰せられ、その名号を称するものには斉しく病苦を救い息災延命転禍福利楽を授け給うと信じられています。
薬師如来を中尊に、日光菩薩を左脇侍、月光菩薩を右脇侍として十二神将で囲んでいます。日光菩薩・月光菩薩は、『薬師経』に薬師如来の浄土で東方瑠璃光世界の主要な菩薩であるとして言及されていますが、薬師如来の脇侍として造像される以外に単独での信仰や造像は無いということです。十二神将は、薬師如来および薬師経を信仰する者を守護するとされる十二体の武神です。
円形の仏壇上、中央の本尊薬師如来像を囲んで立ちます。十二神将は、仏教の信仰・造像の対象である天部の神々であり、また護法善神です。十二夜叉大将、十二神明王(じゅうにやしゃたいしょう/しんみょうおう)ともいい、薬師如来および薬師経を信仰する者を守護する十二体の武神とされております。
薬師如来の十二の大願に応じて、それぞれが昼夜の十二の時、十二の月、または十二の方角を守るといわれ、そのため十二支が配当されます。また、それぞれ本地(化身前の本来の姿)の如来・菩薩・明王があります。
各神将がそれぞれ7千、総計8万4千の眷属夜叉を率い、それは人間の持つ煩悩の数に対応しているといわれ、いい伝えによれば、時を表す十二支に対応していて、一日を約2時間ずつ交替で守護しているともいわれております。